推しは推せるときに推せ
「推しは推せるときに推せ」。少し前から、SNS上でよく聞くようになった気がします。
その言葉を聞くたびに、そうだよなぁ、いついなくなるかわかんないしなぁと納得していました。
昨日、欅坂46の長濱ねるちゃんがグループ卒業を発表しました。
このニュースを、私は親友からのLINEで知りました。
すぐにねるちゃんのブログを読みに行って、そしていつも情報を頼らせていただいているまとめサイトさんを見に行って、そして実感しました。
ねるちゃん、卒業しちゃうんだ。
最初に断っておくと、私の推しは決してねるちゃんではありません。もちろん、欅坂46のメンバーはみんな大好きですが。
それでも、ねるちゃんの卒業は、心に大きな打撃を食らった気分でした。
推しじゃないからダメージはそんなには。昨日の私はたしかにそう言っていました。
けれど、これから欅坂としてのねるちゃんが見れなくなると思うと。
音楽番組で、他のメンバーと共に映るねるちゃん。
クイズ番組で、欅坂46の、と紹介されるねるちゃん。
雑誌で、欅坂46という文字の横に名前が載るねるちゃん。
それらが、これからも当たり前にあると思ってた風景が、一気になくなるという現実は、じわじわとボディーブローのように効いている気がします。
私はどこか、ねるちゃんはこれからも欅坂46であるだろうと思っていました。
ひらがなけやきを経て欅坂専任となったねるちゃんは、決して順風満帆なアイドル人生ではなく、それでも、本人の努力と意志で、誰もが認めるアイドルになったのだと、勝手に思っています。
だからこそ、そのアイドルをこれからも続けていくのだろうし、次誰が卒業しちゃうんだろう、という話題から一二を争うほど遠い人物だと感じていました。
じゃあ、彼女の卒業についてとやかく言う権利はあるのだろうか。
ない、と思います。卒業について、悲しい、もっといてほしかった、という感情を持つのは自由です。けれど、卒業すると決めた彼女の意志を捻じ曲げたり、批判するようなことは、してはいけないと思いました。
私たちは、ただねるちゃんの人生の一部を本人が許してくれたことで見せてもらっていただけなのだと、そう強く思います。
「推しは推せるときに推せ」。私はその言葉を、どこか架空の世界のものだと捉えていた節があった気がします。そして、今回の出来事で、その言葉の現実味を叩きつけられた気がしました。
だからこそ、推しがまだそのことを許してくれている間に、推しについてたくさん触れなくてはいけない。
推しのインタビュー、番組、雑誌、メディア媒体も。推しが誰かに見られることのない人生を選ぶその日まで、私は推しがくれたものをひとつひとつ大切にしなければいけないと感じました。
そうすれば、たとえ、推しが芸能界という世界から去ってしまっても、過去に見せてくれたものを通して、その子の未来について想像することが、どこかで幸せに暮らしていますように、と願うことができると思うからです。
推しは推せるときに推す。いつか私たちの前から推しがいなくなるその日まで。